市川一家4人殺人事件。 市川一家4人殺人事件

日本史上の凶悪残酷極悪犯罪殺人事件ーワースト10

市川一家4人殺人事件

1 簡単な事件概要 加害者である、当時19歳の少年Sは、暴力団とトラブルを起こし、200万円を要求されていました。 そして、それを工面するために、事件1か月前に強姦した当時15歳の少女宅のマンションに侵入し、少女とその家族を殺害、家と、少女の両親が経営していた会社からも、金品を強奪。 平成の少年事件では、初の死刑が確定した事件であり、社会を震撼させ、少年法の在り方について、議論を呼ぶこととなった事件。 2 事件発生日 1992年(平成4年)3月5日(木曜日) 3 登場人物 犯人 少年S(実名:関光彦) 被害者 ・少女(長女) ・少女の家族 合計5人が犠牲となる。 事件のキーマン 被害者の1人である少女(長女)。 標的となったきっかけが、その1か月前の強姦事件がきっかけであったため。 しかし、父が莫大な借金を抱え、祖父の経営する店に損失を与えたことをきっかけに、家に暴力団が押し寄せるようになったのです。 父は、母にDVをしたり、少年Sやその弟に虐待をしたりしたため、家に居場所がないと感じるようになります。 その後、母と弟とともに、夜逃げをしますが、新たな場所でも、いじめなどに苛まれ、少年Sは万引きなどの非行に走り始めます。 中学生になると、体が大きくなったことで、さらに非行はエスカレートし、母や弟にも暴力を振るうようになっていったのです。 高校に進学するも、すぐに中退し、祖父の店で働きますが、売り上げを盗んだり、祖父に暴力を振るったりなどを繰り返し、その後は、傷害事件や、強姦事件などを起こし、犯罪に身を染めていきました。 しかし、誰も出なかったため、留守だと判断、少女の自宅である、マンションに侵入します。 インターホンを鳴らしても、応答がなかったため、留守という判断をより強固なものとし、さらに施錠もされていなかったため、中に入りました。 家の中は消灯してありましたが、少女の祖母がおり、寝入っていました。 少年Sは、蹴り上げて起こします。 祖母は、財布からお金を渡し、帰るように諭しますが、少年Sはこれに対して馬鹿にされたと逆上。 さらに祖母が隙を見て110番通報しようとしたために、もみ合いになり、祖母を殺害しました。 その後、少女と、その母親が帰宅すると、少女の自宅にあった包丁を手に入れていた少年Sは、包丁を使って金品を出せを脅迫します。 そして、母親の背中を刺し殺害。 母親の殺害後は、少女を監禁、その間に、強姦をしました。 強盗直後に帰宅した父親には、背後から近づいて、包丁で刺し致命傷を与え、200万円を渡すよう要求しました。 家にあった通帳を手に入れ、当初の目的は果たしましたが、それだけではすでに満足できないようになっており、父親の会社の通帳も要求。 そして、父親の背中をもう一度刺して、絶命させた上で、少女たちの住む部屋を離れ、少女を連れて、車に乗り込み、少女の父親の会社に向かいます。 会社につくと、少女に通帳、印鑑などを取ってこさせ、ラブホテルに共に行き、そこで一夜を過ごしました。 この時、もう一度少女を強姦しました。 そして、前日の事件の最中、寝室に寝かされいた少女の妹を刺殺。 そして、妹が殺されたことで、喰ってかかってきた少女自身にも傷を負わせました。 電話に出た少女の様子から、脅されていることを知り警察に通報。 警察は従業員と共に、少女の自宅に踏み込みました。 その後、少女の家族の殺害も判明し、強盗殺人の容疑も追加されました。 5 事件後の処理 少年Sは、精神鑑定などを受けますが犯行が計画的であったこと、責任能力があったこと、極めて残虐な事件で情状酌量の余地がないことから、死刑判決を受けました。 2017年12月19日に、死刑執行。 ちなみに事件直後、週刊誌では、少年であるSの実名を使った報道を行っており、物議を醸しました。 新聞各紙は、死刑が確定した後も実名報道は行っていませんでしたが、2017年12月の死刑執行後は、実名での報道に切り替えました。 (出典:Google画像検索) この見た目で、身長178cmで体重80kgという身体だったということで、被害にあわれた家族はどれほどの恐怖を覚えたことかは想像に容易です。 彼女は事件後、母方の実家である熊本に移り住み、美術系の大学へ進学。 その後は結婚し、ヨーロッパで暮らしているそうです。 6 考察 この記事を書いてくださった男性の考察です。 この事件は、少年法に多大な影響を与える事件となりました。 事件の概要を書いている最中も、その残虐性に目を覆いたくなるほどでした。 しかし、少年Sの生い立ちもかなり荒れており、まともな人格を形成できる環境ではないような気もします。 決して、少年Sに同情することはできませんが、少年犯罪を無くすためには子供たちをしっかりと人格を形成できるような環境を作ってあげることが重要なのだと思いました。 簡単なことではありませんが、国をあげて対策すべきことではないでしょうか。

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■狂気の市川一家4人殺人事件■(気の弱い方は注意!!)

市川一家4人殺人事件

市川一家4人殺人事件は1992年、3月5日から6日にかけて千葉県市川市で起きた強盗殺人、強盗強姦などの事件です。 被害家族は5人家族で、生き残った被害少女の他 4人が絞殺や刺殺などで殺害された凄惨な事件です。 事件現場で逮捕された 犯人の関光彦は当時19歳で、少年法の適用になるので重罪は免れるだろうという思惑が関光彦にはありました。 しかし、最高裁で下された判決は死刑判決で、事件発生から25年後の2017年の12月に死刑が執行されました。 市川一家4人殺人事件は、少年犯罪としては 平成史上稀にみる残忍な凶悪犯罪事件として社会に衝撃を与えましたが、死刑や少年法の在り方についても論議を呼んだ事件です。 市川一家4人殺人事件の現場は? この市川一家4人殺人事件は、4人もの命が奪われ、その殺害の状況が残虐で凄惨で、言葉には表せないような凶悪な殺人事件です。 犯人関光彦の罪状は余罪を含めて 強盗殺人・強盗強姦・恐喝・窃盗・傷害・強姦・強姦致傷の7つの罪になっています。 4人の殺害の合間には被害少女を何度も強姦するという犯人の信じられないような異常行動もあり、市川一家4人殺人事件を取り扱うメディアのタイトルには 「閲覧注意」の文字がよく付けられています。 衝撃的な事件の詳細を目のあたりにすることで、 事件内容が断片的にトラウマになってしまう人もいるからでしょう。 以下に、詳細を紹介していきます。 発端は被害者少女が犯人関光彦に強姦された事件 市川一家4人殺人事件が起こる前の2月12日に、被害少女は関光彦による強姦致傷事件に遭っています。 この事件は関光彦が市川一家4人殺人事件の被害者一家宅を知るきっかけになり、 市川一家4人殺人事件の発端になったと言える事件です。 被害少女は県立高校の1年生で、夜遅く自宅で勉強していましたがシャープペンの替え芯が切れてコンビニへ買物に行った帰り道に、車を運転する関光彦に故意に衝突され怪我を負います。 関光彦は被害少女を病院に連れて行った後、被害少女を脅して自身のアパートに拉致し 2度にわたって強姦します。 この時に被害少女の生徒手帳から住所などを控え、その後の市川一家4人殺人事件に悪用することになります。 市川一家4人殺人事件の 被害家族の構成は、当時15歳の被害少女を含めて5人で、全員、市川幸2丁目のマンションに住んでいました。 被害少女の父は事件当時41歳でフリーランスのカメラマンで、雑誌の出版などを行なう会社を行徳駅前に構えていました。 結婚した妻の連れ子が被害少女です。 被害少女の母は事件当時36歳、32歳の時に被害少女を連れて再婚し、夫と雑誌の出版などを行なう会社の経営にあたっていました。 被害少女の妹は被害少女の母が再婚後に生まれた子で、被害少女の異父妹にあたります。 事件当時4歳で市川市内の保育園児でした。 また、 被害少女の祖母は被害少女の父の実母で、事件当時83歳でした。 市川一家4人殺人事件の犯人関光彦の殺害手口 市川一家4人殺人事件での犯人関光彦の 殺害方法や犯行の手口はどのようなものだったでしょうか。 関光彦が被害者のマンション宅に侵入するまでの様子も解っています。 関光彦は市川一家4人殺人事件の前に、何回か被害者宅に時間を変えて電話をかけています。 被害者宅の在宅状況を探るためです。 その結果、午後は留守か祖母が1人でいることを把握していました。 また、何回かマンションに行って被害者宅がある8階まで行き、 部屋番号や1階の防犯カメラの位置などを確認しています。 事件当日は公衆電話から被害者宅に電話を入れ、誰も出ないので留守だと思い被害者宅のマンションに車で向かいます。 市川一家4人殺人事件の最初は被害少女の祖母が 関光彦はマンションの防犯カメラの視角を避けて8階まで行きます。 インターフォンを鳴らしますが応答がなく、 玄関ドアも施錠されていませんでした。 関光彦は状況から、 留守と確信して忍び入り、玄関横の部屋で被害少女の祖母が寝ているのを確認し、居間のほうで現金や預金通帳などを物色します。 しかし、金目の物が見つからないので 寝ている祖母を蹴り上げて現金や通帳を出すよう脅します。 祖母は財布から8万円を出して、これをやるから帰れと毅然と対応し、関光彦の顔に唾を吐きつけもしました。 関光彦は激昂し祖母を突き倒して馬乗りになると、 電気コードで首を絞め窒息死させてしまいます。 市川一家4人殺人事件での一人目の犠牲者です。 次に被害少女の母 被害少女の父は予定より早く9時40分ごろ帰宅します。 寝室にいた関光彦はあわてて服を着て、居間に入ってきた 父親の背後から左肩を包丁で一突きして動きを封じます。 関光彦は現金、通帳を出すよう脅し、 現金16万円と額面約360万円の預金通帳を被害少女に集めさせます。 さらに、勤務先の事務所に別の通帳があることを聞き出すと、被害少女に事務所へ通帳を用意しておくように電話させます。 日付が変わって6日の0時30分ごろ、関光彦は少女を連れて勤務先の事務所に向かおうとしますが、父親から警察に通報される恐れがあるので、すでに瀕死状態となっていた 父親の背中を強く1回突いてとどめを刺します。 犯行の合間にも犯人関光彦は被害少女を 関光彦と被害少女が父親の事務所に行った時に対応した従業員が不審に思い派出所に連絡し、午前1時30分ごろに警察署員とマンションを訪ねています。 しかしこの時は、照明も消えていて応答もなかったので 不在だと考え引き揚げています。 従業員はやはり不審に思い、朝8時過ぎに被害者宅に電話に入れると被害少女が「おはよう」と言ったきり沈黙してしまったので、 異常事態を確信して再度110番通報します。 従業員と警官が被害者宅を訪れ、隣の住民の部屋からベランダ伝いに窓から被害者宅に踏み込みます。 凄惨な殺人現場のなかで関光彦と被害少女が茫然としていて、 関光彦が逃げようとするところを銃刀法違反の現行犯で逮捕します。 市川一家4人殺人事件の犯人関光彦の生い立ち 市川一家4人殺人事件の犯人関光彦は 1973年1月生まれ、母は短大を卒業後、電気機器会社の会社員だった父と結婚し、その長男として生まれました。 5歳年下の弟が一人います。 父は生来の怠け者で賭け事や酒、女遊びに耽り 夫婦喧嘩も日常茶飯事という家庭環境下で関光彦は少年時代を過ごしています。 父が闇金融に約3億円の借金を作ってしまったので、母と関光彦と弟は夜逃げ同然で家を出ていくことに。 その後、母は父と離婚、3人は 食べるのがやっとの極貧生活に転落します。 家庭崩壊の元凶となった 父に対する関光彦の恨みは強く、「できることなら体中の血液から父親の遺伝子・細胞を残らず人工透析で取り除きたいほどだ」という言葉に表れています。 荒れ狂った青年時代 母は女手一つで2人の子供を育て、祖父からも援助されるようになって、関光彦が中学生になってからは不自由なく暮らせるようになりました。 このころから不良少年たちと付き合うようになり、 飲酒・喫煙・喧嘩・恐喝・窃盗など非行の度合いが一気にエスカレートします。 高校は堀越高等学校普通科に進み、1年時はクラス委員を務め、無欠席で成績上位をキープしていました。 しかし、地元では相変わらず喧嘩に明け暮れ、飲酒・喫煙などを日常的に行なう生活でした。 高校は2年で中退し、祖父が営業する鰻屋の手伝いをすることになりますが、店の売上を持ち出したりして、 さまざまな非行に手を染めていました。 何件も警察沙汰の事件を起こしています。 事件前は結婚して子供も 祖父の鰻屋を辞めてから、母や祖父の援助で アパートでの一人暮らしや、車を購入します。 フィリピンパブのマニラ出身のホステスと、 1991年10月に結婚します。 その後、1992年1月に妊娠が判明し女性はフィリピンに帰ってしまいます。 1992年2月6日:フィリピン人ホステスを自宅に監禁、性的関係を持ち、暴行。 2月11日:帰宅途中の女性を乱暴、自宅に連れ込み強姦。 2月12日:市川一家4人殺人事件の被害少女への強姦致傷。 2月12日夜:2月6日の事件で 暴力団組長から200万円を要求される。 200万円を工面するために傷害・恐喝・窃盗事件を2件起こし、その後、3月5日の市川一家4人殺人事件につながっていきます。 市川一家4人殺人事件の裁判 関光彦は当時19歳ですから、 少年法の適用年齢です。 市川一家4人殺人事件を起こす前にも関光彦はいくつかの犯罪を犯していますが、少年なので罪を犯しても重罪にはならず少年院送致程度だろうと考えていたと言うことです。 少年法では、18歳未満の者に対しては「死刑をもつて処断すべきときは,無期刑を科する」とされていますが、 18歳、19歳の年長少年については死刑の適用が可能とされています。 市川一家4人殺人事件で死刑判決になるとは、関光彦は考えてもいなかったことでした。 この事件は、犯人や被害者が未成年であったこともあり、 少年法や死刑制度などが論議された他、犯人や被害者の実名報道の是非なども問われた事件です。 市川一家4人殺人事件の最高裁までの判決 関光彦死刑囚が獄中で 外部の人と接触したのはごくわずかな人に限られています。 その人たちとの手紙のやり取りなどのなかで、関光彦の心境を垣間見ることができます。 関光彦への面会や手紙のやり取り、関係者への取材などを通して 「一家四人惨殺犯の告白19歳」という書籍を著したのが永瀬隼介です。 また、中日新聞の記者、瀬口晴義も面会や手紙のやり取りの内容を記事にしています。 手記の内容については、永瀬隼介の書籍をおすすめしますが、死刑囚の心の不安定さからか一貫した内容ではなく、 死の恐怖を前にした乱れた心境が表れています。 被告人Sは最高裁判決期日の2001年12月3日までに中日新聞社に手記を寄せた、判決を伝える『中日新聞』・『東京新聞』両紙それぞれの2001年12月4日朝刊記事で以下のような内容が掲載された。 ・「千葉地裁・東京高裁と二度の死刑判決を受けたことで『生き恥を晒し続けて自分の家族にさえ迷惑をかけるくらいなら早く死んで消えてなくなりたい。 それで早く生まれ変わって新しくやり直す方が楽だろう』と、安易な自暴自棄に陥っていたころもあった」 ・「しかし僕を見た多くの人から『死んでおしまいなどというのはずるい』『生きて償うべきだ』と言われたことで『「生きていなければ感じられない苦しみ」を最後の瞬間まで味わい続けよう』と改めて決意した。 最後まで生き抜いて罪を贖える方法を模索したい」 ・「僕の経験を反面教師として役立ててもらえば『この世に生まれてきたことに少しでも意味があった』と言えるかもしれません」 死刑執行での関光彦の最後の言葉 市川一家4人殺人事件の死刑囚関光彦の死刑執行前の最後の言葉や、死刑執行の直前の様子などは明らかにされていません。 関光彦と死刑執行前も定期的に面会していた 一場順子弁護士との面会でのやり取りなどが参考になるでしょう。 死刑執行が近いころ、「4人がいつもくっついていて、おまえのことを許さないと言っているようで苦しい」と言っていたのが有名ですが、「申し訳なかった」という 謝罪の言葉ではありませんでした。 一場順子弁護士には、「僕のことは先生が知っていてくれるから、もう、いい」と穏やかな表情で言い、最後の言葉というか遺言は、 「裁判記録は先生の元へ」という一言だったということです。 犯人家族や親族のその後 市川一家4人殺人事件は史上まれにみる凶悪な少年犯罪で、死刑確定、執行後にも いくつかの課題を投げかけた事件です。 少年犯罪での死刑という極刑の適用の是非については、市川一家4人殺人事件以前から永山則夫の連続ピストル射殺事件での適用などもあって肯定化されつつあります。 また、 少年犯罪における実名報道については、SNSが発達し、加害者だけでなく被害者の実名までも露わになってしまうような現在なので、報道規制などの適切なルール化や運用などが望まれるでしょう。 現在もいろいろな凶悪事件がニュースなどで賑わっています。 市川一家4人殺人事件のような凄惨で残虐な少年犯罪事件が二度と起こらないようにと願うばかりです。

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【市川一家4人殺人事件】死刑判決が言い渡された未成年犯罪とは?

市川一家4人殺人事件

1 簡単な事件概要 加害者である、当時19歳の少年Sは、暴力団とトラブルを起こし、200万円を要求されていました。 そして、それを工面するために、事件1か月前に強姦した当時15歳の少女宅のマンションに侵入し、少女とその家族を殺害、家と、少女の両親が経営していた会社からも、金品を強奪。 平成の少年事件では、初の死刑が確定した事件であり、社会を震撼させ、少年法の在り方について、議論を呼ぶこととなった事件。 2 事件発生日 1992年(平成4年)3月5日(木曜日) 3 登場人物 犯人 少年S(実名:関光彦) 被害者 ・少女(長女) ・少女の家族 合計5人が犠牲となる。 事件のキーマン 被害者の1人である少女(長女)。 標的となったきっかけが、その1か月前の強姦事件がきっかけであったため。 しかし、父が莫大な借金を抱え、祖父の経営する店に損失を与えたことをきっかけに、家に暴力団が押し寄せるようになったのです。 父は、母にDVをしたり、少年Sやその弟に虐待をしたりしたため、家に居場所がないと感じるようになります。 その後、母と弟とともに、夜逃げをしますが、新たな場所でも、いじめなどに苛まれ、少年Sは万引きなどの非行に走り始めます。 中学生になると、体が大きくなったことで、さらに非行はエスカレートし、母や弟にも暴力を振るうようになっていったのです。 高校に進学するも、すぐに中退し、祖父の店で働きますが、売り上げを盗んだり、祖父に暴力を振るったりなどを繰り返し、その後は、傷害事件や、強姦事件などを起こし、犯罪に身を染めていきました。 しかし、誰も出なかったため、留守だと判断、少女の自宅である、マンションに侵入します。 インターホンを鳴らしても、応答がなかったため、留守という判断をより強固なものとし、さらに施錠もされていなかったため、中に入りました。 家の中は消灯してありましたが、少女の祖母がおり、寝入っていました。 少年Sは、蹴り上げて起こします。 祖母は、財布からお金を渡し、帰るように諭しますが、少年Sはこれに対して馬鹿にされたと逆上。 さらに祖母が隙を見て110番通報しようとしたために、もみ合いになり、祖母を殺害しました。 その後、少女と、その母親が帰宅すると、少女の自宅にあった包丁を手に入れていた少年Sは、包丁を使って金品を出せを脅迫します。 そして、母親の背中を刺し殺害。 母親の殺害後は、少女を監禁、その間に、強姦をしました。 強盗直後に帰宅した父親には、背後から近づいて、包丁で刺し致命傷を与え、200万円を渡すよう要求しました。 家にあった通帳を手に入れ、当初の目的は果たしましたが、それだけではすでに満足できないようになっており、父親の会社の通帳も要求。 そして、父親の背中をもう一度刺して、絶命させた上で、少女たちの住む部屋を離れ、少女を連れて、車に乗り込み、少女の父親の会社に向かいます。 会社につくと、少女に通帳、印鑑などを取ってこさせ、ラブホテルに共に行き、そこで一夜を過ごしました。 この時、もう一度少女を強姦しました。 そして、前日の事件の最中、寝室に寝かされいた少女の妹を刺殺。 そして、妹が殺されたことで、喰ってかかってきた少女自身にも傷を負わせました。 電話に出た少女の様子から、脅されていることを知り警察に通報。 警察は従業員と共に、少女の自宅に踏み込みました。 その後、少女の家族の殺害も判明し、強盗殺人の容疑も追加されました。 5 事件後の処理 少年Sは、精神鑑定などを受けますが犯行が計画的であったこと、責任能力があったこと、極めて残虐な事件で情状酌量の余地がないことから、死刑判決を受けました。 2017年12月19日に、死刑執行。 ちなみに事件直後、週刊誌では、少年であるSの実名を使った報道を行っており、物議を醸しました。 新聞各紙は、死刑が確定した後も実名報道は行っていませんでしたが、2017年12月の死刑執行後は、実名での報道に切り替えました。 (出典:Google画像検索) この見た目で、身長178cmで体重80kgという身体だったということで、被害にあわれた家族はどれほどの恐怖を覚えたことかは想像に容易です。 彼女は事件後、母方の実家である熊本に移り住み、美術系の大学へ進学。 その後は結婚し、ヨーロッパで暮らしているそうです。 6 考察 この記事を書いてくださった男性の考察です。 この事件は、少年法に多大な影響を与える事件となりました。 事件の概要を書いている最中も、その残虐性に目を覆いたくなるほどでした。 しかし、少年Sの生い立ちもかなり荒れており、まともな人格を形成できる環境ではないような気もします。 決して、少年Sに同情することはできませんが、少年犯罪を無くすためには子供たちをしっかりと人格を形成できるような環境を作ってあげることが重要なのだと思いました。 簡単なことではありませんが、国をあげて対策すべきことではないでしょうか。

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